2017/9/1
Tシャツ一枚では少し肌寒く感じる。秋到来。
トルコ旅行を目前に控え、久々に美術鑑賞に出かけた。
昼下がり、ひとり気ままに『センチメンタルな芸術散歩』
新宿へ来るとなんだかホッとする。かつて父の事務所がここにあり、本当によく訪れたものだ。世界堂で買い物を済ませ、オペラシティアートギャラリーへ。
荒木経惟が好きだ。彼の撮る写真はどれもよく噛んで食たくなるような味わいがある。
今日は展示を観ながら、気づきの断片をたくさんメモした。
1. 大光画
会場に入ると直ぐに荒木が撮影してきた人妻たちの裸体が並ぶ。
現代の、少女ではないある種の人々の裸体。異様なパースが広がっている。
どう観てよいのか戸惑わずにはいられない。
2. 空百景 3. 花百景
多数の空の写真、花の写真。
移り変わる空模様は、流転する気分そのままだなと誰もが観て感じるだろう。でも、この空は常にどこか悲しい。楽しくて悲しい。嬉しくて悲しい。泣きたくて悲しい、、。
けばけばしい花を、コントラストを強くモノクロームで写す。人妻の裸体に通じる毒々しいまでの個性の主張がある。
4. 写狂老人A日記 2017.7.7
膨大な数の一日の写真。彼が撮ると、現代にも死とエロスのフィルターがかかる。無造作に取られた写真だが、どれも強い孤独を感じさせる。全て死にゆくもの、滅びゆくもの、”甘き死よ、来たれ”とでも言いたくなる。
5. 八百屋のおじさん 6. ポラノグラフィー 7. 非日記
1964年に撮影された『八百屋のおじさん』。1ページめに書かれた言葉は、”これは私のピエロ考です”。ピエロはいつもニコニコとして、だが、皮膚一枚を隔てた内側は途轍もない孤独だ。
荒木も、被写体も。人間が好きだ。それがよく分かる。ポートレイトは人間が好きな人が撮らなければいい写真にはならない。内気な人でさえその気にさせるほどの人間好きでなければ、、、。
彼の写真集が置かれ、座って読める。たくさんの裸体を目にして、彼が見る女性のことを考える。
女性は女陰に象徴される虚しさを抱えている。それは湿って、暖かな、空隙を腹に持つということ。それは妊娠した僅かな間のみ、充実した存在となる。どこか詩的な哀しさを持つ。対する男性は存在しないという存在だ。産声をあげたその時から、なぜ生まれてきたのだろうと泣きじゃくり続けている。ただ、生命のシステムとして存在する。儚いものだ、、。
ここで、始めの作品に戻る。人妻、多くは経産婦。彼女たちは、かつて満たされ、それを喪失したという深い悲しみを抱えた存在であると気付く。荒木は写真を撮ることで彼女らを慰めていたのだ、、、。
そうか、男の存在意義は女性の慰めとなる事なのだな、、、。
本展のカタログ、その帯の荒木の言葉を引用したい。彼の写真を観て受ける印象はこれに尽きている、、。
”写真っていうのは真実じゃなくて切実、切ない真実なんだよ”
恵比寿へ。東京都写真美術館。
『総合開館20周年記念 荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-』
再び荒木の展示。メインの作品は彼を有名にした、『センチメンタルな旅』。今は亡き妻、陽子との新婚旅行のありのままを撮った私写真。本展では他に恋愛期、結婚期、そして死とその後を撮った作品が並ぶ。(荒木の作品は全てこれらのどれかに該当するが、、。)
結婚以前の陽子は、美しき死の匂いをさせ、少女性が強い。クラーナハの”イブ”を彷彿とさせるポーズをさせて、撮影している事に象徴される。
『センチメンタルな旅』になると、少女性は薄れる。
新婚旅行をこうまで撮られるとはどうなのだろう。正直うんざりという表情も、どこか笑みを潜ませユーモラスだ。結婚のどこかしらにある妥協とも言える変化の中で、でも若々しい愛に溢れている。
オペラシティでの展示では、女性にこのような肉体やユーモアを感じなかった。愛した女性は違うのだな。
結婚生活の中で、コロコロと表情を変える陽子。素直な喜怒哀楽が見て取れる。(後年の膨大な空の写真を荒木は何故撮っていたか、、)
死の直前の食事を取り続けた連作。”食事は死への情事だった”荒木の言葉はあまりに哀しい。
後年の陽子。まるで母親のような優しい目で彼を見つめる姿。それがまた悲しい。
死後モノクロームの写真を撮り続けた荒木。一周忌の日に妻のピンクのコートを着て写真に色彩を取り戻す。あまりに鮮やかなピンク。それを遺品に見つけた彼はどんな気持ちだったのだろう。
愛猫チロのポラロイド。陽子の死後も長く家族として彼に撮られ続けた。とても強い目をしている。彼岸から見つめられているような気分がする。
写真展を観ながら、なんだか一人で多くの会話をしていた。彼の写真の陽子は常にこちらを見つめている。そこにあるのは、見つめる、見つめられるの疑似体験にほかならない。荒木が見つめる、彼女が見つめ返す。シャッターボタンを押すことが写真ではない。見つめる確かな目がなければ写真だって撮れないのだ。
良い展示だった。展示空間も良かった。折り返し地点。通路の先に荒木の言葉だけがプリントされている。象徴的な空間、妻の生前そして亡き後をつなぐ、、。
総合開館20周年記念 TOPコレクション「コミュニケーションと孤独」平成をスクロールする 夏期
コレクション展へ。こちらも良い展示だった。どれも満喫したが手短に。
林ナツミさんの本日の浮遊は以前からお気に入りだ。荒木の展示での気付きと絡めて。
Tue.06.21.2011 本日の浮遊 Today's Levitation
被写体でもある写真家は、空虚さを軽さと読み換えて空に浮かんだ。哀しみをポップに変えて、、。
ポップな彼女たち。哀しみと戦う彼女たち。それを讃えて、、。
2017/08/29
夕方過ぎまでは警備員の講習。夏のバイトの本当の締めくくり。
フラストレーションも、折り合いの悪さも、割り切れなさも、、ひとまず終わり。
自分の成すべきことを悩んで、全力で打ち込める時を迎える。
映画館へ久しぶりに立ち寄った。渋谷UPLINK、この劇場は恐らく6年振り。前回の『監督失格』は監督の嘆きが今でも強烈な印象を残している
身体表現に憧れている。自分の思いを、ただひとつの肉体を持って表す事ができる。
それほど素敵なことは無いと思う。
そうした憧れと、極地の肉体美を期待して観に行った。
天にに恵まれた才能と、努力の蓄積にしびれるものがあった。だが、一番の主題はひとつの家族愛の形と、その中で苦悩する孤独な若者の姿である。
10歳も満たずに、一同の期待を一身に背負ってただひとつの前をみて突き進んだ、、。その彼が我に返った時、自分がサラブレッドのように歪な存在だと気づく、、。
孤独、苦悩、、。心なき肉体に、心を取り戻す。
彼を支え、そして追い込んだひとりでもある、祖母の言葉がとても良い。思いと、言葉が、見事に調和し素直な感情が伝わる。泣かせる味わいに満ちている。
果たして彼はこのまま家族と、とりわけ母親と、痛みのない愛に包まれるのだろうか?
いや、そうはいかない。
Sergei Polunin, "Take Me to Church" by Hozier, Directed by David LaChapelle
このPVには彼の肉体美、身体表現の凄みがある。だが、背景にある万感の思いを知るためには映画を見なくてはならない。
建築、これもメタフィジカルな感情を、フィジカルに表す表現ジャンルの一つであるといえる。そこに、どれだけの深みをもたせることができるのか、、。それは、これまでとこれからの私の苦悩に、真面目に戦う不断の努力にかかっている。
自由な時間、自己支配下にある時間。そのありがたみを感じて、建築と対話する。
2017/04/10
遅ればせながら新年度スタート。今までのように流されるのではなく自覚的に行動しなければならない。
食わず嫌い的な苦手意識を持っていた建築家だったけれども、素直に面白かった。
シークエンスを意識して、巧みに変わる空間演出はエンターテインメントだ。空気をまとわせ、霞むような輪郭、、。物質性と、機能性を、剥離・分解したフォルムはメタファーとした森の魅力を確かに持つと感じさせる。
一点、一点のパースが、写真が、抜群に美しくて見ているだけで多幸感に包まれる。
実際にそうした空間に行って体験したいと思わせる。
いまだ知らない快い感覚を与えるという意味で、すぐれたアート作品。
隣接する夜桜の鮮やかな庭園を眺めながら、また一つスクラップブックのページが増した喜びを味わう。
2017/04/04
2017/2/6
笠原小学校見学に懐かしの宮代町へ。
父の旧知の方々に久しぶりにお会いし、案内していただいた。
進修館、素晴らしかった。
40年弱、リノベーション等で変わった訳でもなく愛され、使われ続ける。稀有で貴重。
何がそれを成り立たせているのか、建築としてのチカラはどこから来るのか。もっと知りたくなった。
笠原小。
学校はまち。教室は住まい。学校は思い出。
ハンス・シャロウンの集合住宅的な形態、並ぶ甍が町並みで豊かな植栽から望む。学校建築には無い美しさがある。
住まいとされた、教室は各個異なった雰囲気をまとい。まさに家庭だなと感じる。
全体は周囲の空気を含む空間全てを取り込んだ作りがなされ、開放的だ。
学校を取り囲む柵が低い竹垣だというのが特に気に入った。
都市圏の外縁にて。人と人の距離感がとても近いまちで、素敵な一日を楽しんだ。
2017年1月1日
人生の転機にはいつもこの人の作品が隣りにあった。
中学、高校そしてそれから、、。ずっと読み続けてきた沢木耕太郎さんの作品に、行き詰まった今の自分を変えてくれるなにかを求めて、『春に散る』を手にした。
やさしいな、慰めか。
敗れた者、壊れる者、何かを求めて求めて満たされることのない終わりない日々を生きる者。作家はまっすぐな眼で見つめ、なぜと問い続けることで不器用な人々の生き様を描き続けてきた。
『春に散る』はそうした者たちへの願いにも似た手向けに見えた。
苦難の果ての結末がこのような分かりやすい幸せであってほしい、、。
生きることに戦い続け、その有様を強烈に示し続けた作中の昭和の人々に改めて敬意を表したいと感じた。